「日本」を考える???

先日、「日本・日本語・日本人」という新潮選書を読み返しました。大野晋氏、森本哲郎氏、鈴木孝夫氏という、日本語に精通した面々による鼎談に、お三方の短い論説文が挟まれるという構成の本です。日本でも何回か読んでいたのですが、今改めてページを繰ってみると、「おー」と唸ることが多いです。

人間は言葉で考える。そのとき、言葉というのは単なる道具ではない。考えるということと言葉とは密接に結びついているんです。しかし、そういう自覚が(筆者注::『英語第二公用語論』の議論には)まったくない。つまり、道具だから、日本語で喋っても英語で喋っても、どっちでもいいじゃないかという単純な考えなんですね。とんでもない。日本語にも英語にも、それぞれに歴史があり、そこに思考や感情が結晶している。どの言語でもそうです。茶碗でもコップでも、どっちでも置き換え可能で、飲むのは同じだからいいじゃないかというような考えは、まったく浅薄きわまりない。(森本氏、P.181)


言葉は、単に言葉としてだけ存在しているわけではない、ということは、毎日実感しています。言葉が変わると、性格や思考や行動も変わってくる気がします。たとえば、英語で何かしゃべろうとする時、まずは、"I..." で切り出すわけですが、これが日本的な感覚だと、「私が!私が!」と主張し続けている感覚で、どうもいたたまれません。でも、アメリカという英語圏では、自らの意見を通すことは当たり前。「私はこう思う」と伝えなければ、察してもらうことなく通り過ぎてしまいますし、逆にクレームをつけると、大体のことは対応してもらえます。言葉が変われば、人格も変わる。本当に、言葉の威力は強力です。日本列島に住み、日本語を話す、日本人の特異性、母国語の重要性、外国語の習得方法など、示唆に富んだ本でした。

日本・日本語・日本人 (新潮選書)

日本・日本語・日本人 (新潮選書)


今、司馬遼太郎氏「坂の上の雲」を読んでいます。日本が「世界の中の日本」になっていく過程、時に涙ぐましく、滑稽なまでの努力と、崇高な向上心に溢れていた明治という時代があったということ、興味深いです。NHKで特別大河ドラマとして放映されますね。来年からでしたっけ?発表になった俳優さんのイメージを、登場人物にあてはめながら、楽しんでいます。