ごみ。

今日は、日差しはキツイのですが涼しく、空は快晴というまことに過ごしやすい天気でした。


週末はごみを捨てる日になってきつつあります。アパート内に、コンテナほどの大きさのゴミ箱が3つほどありまして、いつでもいくつでも入れることができます。入れるというより、口が上に斜め上に向かって開いているので、斜め上に放り投げるというのが正しいです。


この国、少なくともこの地域には、ごみの分別収集がありません。生ごみもビンも缶も段ボールも、おそらくTVも、いっしょくたにポイです。日本の分別収集に慣らされた身にはどうもこれには罪悪感があり、最初の頃は家の中で袋を分けていましたが、結局は同じ箱に「えいやぁ!」で投げ入れているので意味なしと考えて、分別の概念は忘れました。今は、箱に入れる時に最適な大きさと重量だけを考えています。スーパーに行くと、「買物袋はプラスチック(ビニール)と紙どっちにする?」とは聞かれますが、マイバック持参の人など見たこともありません。少なくとも2,3袋、多いときは10袋以上になることも珍しくありません。


これらの事象をもって、「アメリカはごみ問題を考えてない」とか「環境問題に配慮していない」というのは、正しい意見であるかもしれませんが、すべてでもないような気がします。たとえば、私の住む地域にはごみ処理場というものが存在しません。土地が広いので、ごみは遠くに埋めるもの、というのがアメリカの常識のようです。地域のごみ処理場の焼却能力や、ダイオキシンに配慮しての分別は必要ないわけです。つまりごみというものに向き合う切実な現実がありません。また、石油で発展した町であるヒューストンは、車のガソリンやビニール袋などを大量消費することで地域経済が潤うという話もあります。


ごみを大量に出し続けることのエクスキューズにはならないと思いますが、実感としてないものを制度づけるのは、なかなか難しいことだと思います。人間、追い込まれて痛みに気づかないと軌道修正できない、というのは困ったものですね。